2016-11-22 第192回国会 参議院 文教科学委員会 第5号
この色覚検査というのは、日本では、一九一六年、大正五年、石原忍陸軍軍医が徴兵検査用に色覚検査表、今では石原表と言われますが、を考案して、これが一九二〇年から学校の身体検査でやるようになったのが始まりだというふうに聞いております。それからですから、八十年以上やっていたわけです。
この色覚検査というのは、日本では、一九一六年、大正五年、石原忍陸軍軍医が徴兵検査用に色覚検査表、今では石原表と言われますが、を考案して、これが一九二〇年から学校の身体検査でやるようになったのが始まりだというふうに聞いております。それからですから、八十年以上やっていたわけです。
さらに、徴兵検査によって日本兵として戦場に駆り出され、本人の意に反して日本軍慰安婦となることを強要されました。 総理、日本の植民地支配によってこうした損害と苦痛を与えたという認識が総理にはありますか。日本の植民地支配によってもたらされたものだと認識ありますか。
近視で、徴兵検査にも合格できないような体でした、敗戦間際の弾よけのため戦地に送られた、このようにおっしゃっています。つらい思いをさらに踏みつけにしている事態ではないでしょうか。 平和遺族会の調べでは、戦没者の妻への特別給付金、全五回をトータルすると、約十万人が受給権をなくしたのではないかとしております。
実は、私は時々、どこの委員会でも言うんですが、私が、最後の徴兵検査を受けたいわゆる戦中派が、最後になるわけですけれども、そういう者の仕事は、役割は何かといったとき、その体験をできるだけこの議会の場でも申し上げて、そしてとにかく新しい二十一世紀の日本づくりに頑張っていただきたい、そんな気持ちを持っていつも言っておるものですから、つい昔話になるんですが、これは委員の皆さんも役所の皆さんもひとつ御了解願いたいと
また、徴兵検査も加古川で受けるというような、関係のあるところでございます。 その、中の志方の西側の西志方という地区、これには南北の幹線道路が全然ないのです。農道等はちょいちょいありますけれども、南北の幹線道路がない。
また、我が国の男子は、成人前にすべてが兵役の義務により徴兵検査を受け軍人勅諭や戦陣訓により天皇の命あらば身命をなげうつための教育が行われていたのであります。もちろん、これは天皇の御意思とは言えません。天皇の御稜威と称し天皇の御名を使って国民を総動員した時の軍部と政府の統治のための手段だったのであります。
○国務大臣(野呂田芳成君) 昔、褒め褒めとられる徴兵検査という言葉がありましたが、今の佐藤委員のお話を聞いておりますと、私も何となくそのお気持ちがわかります。
それは、昔、日本の国に、今は日本国ですが、大日本帝国に生まれた男子はすべて徴兵検査を受けたんです。すべての男子です。体が弱くても病人であっても、特定の本当に激しい状況でなかったら全部徴兵検査を受けたんです。日本の国の男子はすべからく兵隊の義務がある、その中で私ども三人は育ったんです。あとの皆さんは、この中で本岡さんがその次に若いらしいけれども、この人たちには徴兵の義務の経験がないんです。
私は最後の徴兵検査を受けたわけであります。ちょっと年代の差を感じた、この論文を見まして。 というのは、外務省の皆さんも世界各国で随分御苦労願っていると思うんですけれども、私が一番心配するのは、どこの国でも憲法は大切にしているんですね。アメリカ人ぐらいアメリカ憲法を大切にする者はいない。だから、情勢が合わなければ直ちに憲法改正をします。憲法改正をきちっとする。
○山本正和君 これからの日米関係等についての総理のお考えはまた伺うといたしまして、私はいわゆる大日本帝国当時の男子はすべて徴兵検査を受けたという世代の最後の世代ですから、その世代の戦争の体験の中で思ったことをちょっと言いますけれども、あれは中国と戦争をして日本の国は本当にくたびれ果てておったんです。しかし、どうしてもこの戦争は勝たなきゃいけない。私どもは、天皇陛下は神の子であると信じ切っておった。
今回の論議を通じまして、私の戦争体験といいますか、私は十九歳のときに、徴兵検査が一年早まりまして、例年だと二十で検査があるわけですが、一年早まって十九歳で検査をして、その年のうちに軍隊に徴兵をされました。非常に厳しい、自由も束縛される、いろいろなことを教わるのもみんなげんこつと一緒にたたき込まれるというような生活を続けたわけでありますけれども、げんこつだけではなかなか物事は覚えられない。
ただ、幸いといいましょうか運命というのでしょうか理工系であったために、徴兵検査は甲種合格だったのですけれども徴兵延期の措置を受けまして、二十年の九月十五日、つまり終戦の一カ月後に入隊予定になっておったのですが、一カ月前に終戦ということで今日生き長らえておるわけでありまして、多くの友達が戦病死をしておるということで安全保障問題というのは本当に日本の運命あるいは国民の運命がかかっておる大事な問題であるわけですから
日本でも明治十年から約四十年余り、大学、旧制高校は九月入学だったそうですが、これの一番大きな原因は徴兵検査が四月になったことに影響されて明治の半ばから小中学校、師範学校が四月入学に変わった。
結局は、四月入学というのは徴兵検査から始まったということで日本の軍国化にかなり関係があるんですが、もう一つ、そういう意味で日本の軍国化と関係のあることでお尋ねしたいんです。 明治十九年、初代文部大臣の森有礼さんが制服を決めたそうです。そして、これは高校、師範学校などに軍隊式の体操を導入したときに制服を採用しました。そして、今着ている黒の詰め襟のルーツというのは陸軍の下士官の戦闘服がルーツです。
ただ、徴兵なんというようなあれは、私は徴兵検査を受けたんでございますけれども、ついでに申し上げると、私の場合、教育勅語を金科玉条として教わってきたその年代でございますが、今全くゼネレーションが変わっておりまして、ですから、もう一回一つの家族制度というものを今の若い人たち、子供たちが身につける必要があると思うんであります。
あの戦争が始まったために我々は翌年三月を待たずに繰り上げ卒業となり、臨時徴兵検査を受けることになった。甲種合格の者はもちろんのこと、第一乙から第二乙の者まで、体に異常がない限りあらかた軍隊にとられることになった。それなのに、おれはあの検査で第三乙になり軍隊に行かずに済んだのだ。
しかし、これは六十キロになると、昔の徴兵検査前の青年が六十キロの俵を、十六貫の俵を担いで上げられるのは、十人に一人か二十人に一人ぐらいしかいなかったわけでありまして、もう五十キロと六十キロでは随分違ったことになるわけです。私は、その五十キロのセメントを一人で抱えて背中に上げることはできるのだけれども、二俵、つまり百キロをこう抱えていくことはできませんでした。
私も実際の戦闘はしたことがないけれども、しかし戦争中は、これでも徴兵検査を受けて、地雷を持って戦車に飛び込む訓練までは受けているのですよ。 そんなもの、戦闘の実際を知れば、安保条約五条の場合でさえ指揮命令関係にないのに、それを重要なメルクマールにする、そんなことを法律の専門家が憲法解釈の基準として出すなんておかしなことがありますか。そのことによって国連の平和協力隊の活動できる範囲を広げる。
私は、ちょうど昭和二十年、一年繰り上げ徴兵検査を受けて旭川の第三部隊に入営をして、技術幹部候補生で終戦を迎えたわけでありますから、正規であれば我々以上の年配がかつての軍隊を経験いたしておるのであります。海部総理は、三十五年の同年兵でありますが、そのときはまだ中学二、三年ではなかったか、かように思います。
○政府委員(都甲岳洋君) 当然日英、日米両条約のこの該当規定は双務的な規定になっておりますので、確かに先生御指摘のように、日本は憲法上のたてまえから徴兵検査、徴兵制度というのはしいておりませんけれども、理論的に申し上げればそのようなことは日本側としても可能な体制に領事条約上はなっております。
○立木洋君 日米のあれを見ますと、十七条の一項の(b)ですか、徴兵検査が領事館によってできるという項目がありますね。これは今回のウィーン領事条約の中ではそういう項目があるのでしょうか、それに該当するような。
○立木洋君 これはやっぱり相互主義の内容になるから、日本はもちろんいま徴兵検査はやっていませんけれども、日本も領事部で徴兵検査をやろうとすればできるということに法的にはなっているわけですね。